ザ・ホエール (2022)
監督・製作:ダーレン・アロノフスキー
※この感想は、映画の結末について触れています。
クジラの声に、心のどこかを引っ掻かれるような哀愁を感じるのは何故だろう。
描かれるのは、主人公の部屋の中だけ。窓の外はずっと雨で薄暗く、繰り返し繰り返しクジラの声がする。主人公はもうどうしようもないところまできていて、物語は始まりからずっと陰鬱で、悲しくて寂しい物語で。それでも静かに明日を願うような物語だった。
「ザ・ホエール」の登場人物たちを、メルヴィルの「白鯨」になぞらえるのなら、語り手であり、”自らの暗い結末を先送りにしているだけ”という点で、チャーリーはイシュメールととるのが妥当だろうか。
それと同時に、彼は白鯨そのものでもあるように思われた。
チャーリーはきっと、”理性のない巨大な怪物”である白鯨でいたかったのだと思う。それなら、娘に会えなくても、愛する人を失っても、傷付かずに済んだから。過食という自傷を繰り返さずに済んだから。
それでも彼は、自らもおぞましいと思うような姿になっても”理性のない巨大な怪物”にはなれなかったから、最期に娘と時間を過ごすことを望んだのだろう。
この作品を観て思い出したのは、クリスチャン・ボルタンスキーの映像作品「Misterios」(2017)。
「Misterios」は3本の映像をそれぞれスクリーンに映し出した映像作品で、左右のスクリーンにはそれぞれ空と海原、浜辺に横たわるクジラの骨の映像が映し出されている。そして、正面のスクリーンには浜辺に立つ3本の黒い金属製のオブジェの映像。このオブジェはパタゴニアにある寒村に建てられ、風を受けてクジラの声によく似た音を奏でる。
作者であるボルタンスキーが亡くなった今でも、パタゴニアの海辺にある3本の黒いオブジェは、毎年その海に回遊しにくるクジラたちに向かって鳴き続けている。
Marian goodman Gallery
「Misterios」を観た時に感じたのは、寂しさ。オブジェたちは、いつか人類がいなくなった後も、壊れるまでクジラたち向かって鳴き続けるだろう。クジラからの答えはきっとないけれど、それでも絶えず鳴き声を発し続けるその姿は、52ヘルツのクジラのようで寂しく感じられた。
答えるものがいなくても鳴き続けるのは、誰かとの繋がりを切実に求めているようで。
チャーリーの姿も、私にはそう映った。
幼い自分を捨てた父親への怒りを燃やすエリーは、白鯨への復讐心に燃えるエイハブ船長だろう。苛烈で、自分以外の全てを軽蔑している彼女の言動は凶悪なナイフのようで、そんな彼女へ大らかに接するチャーリーが痛々しく見えるまでだった。
映画を観ていてエリーの言動や、トーマスへの態度はよくわからなくて、けれど父親に捨てられたという思いが根底にある彼女もまた、”理性のない巨大な怪物”でいたかったのかもしれないと感じられた。
「救済は必要ない」とリズもチャーリー自身も繰り返しトーマスに言っていた。病院には決して行かない。自分が救われたいとは思わないから。
ただ、人生で何かひとつ、正しいことをしたんだと信じたいと言った。エリーとの絆を取り戻すことが、エリーに”人生について少し考えさせ”ることが、チャーリーにとっての人生の清算で、それが唯一の救いだったのだと思う。
誰もが、間違いも後悔も避けることはできなくて。人生が終わると分かった時、あるいは、引き返せない分岐点まで来てしまった時に、自分はそれらを振り返って、何を思うだろうか。
やり直しを願うのか?間違いや後悔の意味を求めるのか?救われたいと願うのか?
その時になってみないと、わかるはずはないけれど、どれだけ辛くても、誰かの明日を希望と胸に抱くことはできるだろうか。最後に明かりを見出すことはできるだろうか。そんなことを考えさせられた。
「白鯨」では、エイハブは白鯨と共に海に消え、船は沈み、生き残ったのはイシュメールただひとり。
この物語では、死んでしまうのはチャーリーだけ。エリーはきっと、白鯨への妄執を抱いたまま死んでいったエイハブとは違い、チャーリーという白鯨と折り合いをつけて明日へ歩き出したのだと信じたい。
陽の光の中で「白鯨」のエッセイを読み上げるエリーへ、自らの足で歩み寄ったチャーリーが光の中に包まれた時、まるでクジラがその大きな体を海面へ持ち上げたようで。そのまま大きな波音と共にクジラの姿は海の中へ消え、ただクジラの鳴き声だけがいつまでもこだましているようだった。
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